カフカ 『変身』第3章 #33

カフカ『変身』3章からです。いよいよ最終章。

 

#33 

 1ヶ月以上も苦しんでいた深い傷は―― だれもリンゴを背中から取り除こうとしなかったから、目に見える記憶としてからだに残ったままになっていた―― 、父親にさえも、グレゴールはいま悲しく忌むべき姿なのにもかかわらず家族の一員だということを思い起こさせた。家族の一員を敵のように扱ってはいけないし、逆に家族が義務として反感をぐっとこらえて我慢しなければならない、我慢する以外になかった。

 傷のせいでいまではおそらく永久に機敏に動き回ることができなくなってしまい、今のところ部屋を横切るのにも老年の負傷兵のように長い長い時間がかかったが―― 高いところを這い回るなんて考えられなかった―― 、そうだとしても、グレゴールの考えによれば、自分の状態が悪化したことと引き換えに、十二分にそれに値する対価を得た。いつも夕方頃になると、以前から一、二時間様子を熱心にうかがうことにしていた居間のドアが開かれるようになったのだ。そのおかげで、部屋の暗がりで身を伏せて見えないようにしながら、家族みんなが明るい机を囲んでいるのを目にすることができたし、いわば家族皆の許可を得てというかたちだったものの、だから前とは全然違ってみんなの会話を聞くことが許された。

 とはいえ、以前のようなにぎやかな会話はもうそこにはなかった―― 疲れてホテルの狭い部屋に帰ってきて、湿った寝具に身を投げなければならない時に、ただそんな会話をしてみたいといつも思っていた。いまでは多くのことがものすごく静かに進んだ。父親が夕食後すぐに肘掛け椅子で眠り込むと、母親と妹は互いに静かにするように合図をしあった。母親は明かりの下に深くかがみ込んで、婦人服店のために洒落た下着類を縫っていた。妹は販売員の仕事を見つけていたが、もしかしたらゆくゆくはもっといい仕事につけるかもしれないと、夜には速記とフランス語の勉強をしていた。ときどき父親が目を覚ますと、まるで眠り込んでしまったことにまったく気がついていないようで、母親に向かって「今日はこんな遅くまでまた縫い物をしているのか!」と言い放つとまたすぐに眠り込んだ。母親と妹はといえば互いに疲れた笑みを交わすのだった。

カフカ 「天井桟敷で」

カフカ天井桟敷で」(Auf der Galerie)

・テキストは前回と同じく、同学社の「Kurzgeshichten Franz Kafkas(カフカ 小品集)」という小冊子を使いました。

・次回あたりから『変身』に戻ろうかと思います。

天井桟敷

 ある弱々しい肺病の女曲馬師が、鞭を振り回す冷酷な座長に、何ヶ月も休みなく、疲れ知らずの観衆の面前でふらつく馬に乗ることを強いられ、馬上で空を切って動き回り、投げキスに、腰を振る。そしてこの演技が、オーケストラと換気装置の鳴り止まない轟音の中、弱まりながら新たに膨れ上がる諸手の拍手、本当に蒸気のハンマーのような拍手に迎えられ、たえず先へ先へと打ち開いていく単調な未来にむかって続くなら―― ひとりの若い天井桟敷の観客が階段を駆け下り、客席をことごとく通り抜け、演技場に突進すると、臨機応変なオーケストラのファンファーレが場を盛り上げ、「やめにしろ!」と叫ぶ。

 けれどそういうことではないわけで―― きれいな女性が一人、彼女は色白で赤みがさしている。目の前にいる誇らしげな制服姿の者たちが幕を開くと、彼女はその幕と幕のあいだを抜け、はやばや入場してくる。座長は彼女の眼を探し求めることに身を捧げ、動物のように彼女から目を離さず息をする。葦毛の馬上に彼女を注意深く持ち上げるその姿は、何よりも愛すべき孫が危険な旅に出るようだ。けれど鞭を打って合図をする決心ができない。でも最後には自分に打ち勝ち、ぱちんと音を鳴らして合図した。馬の脇についてぜえぜえ喘ぎながらあちこち走り回って、女騎手が跳躍するたびに鋭い視線を這わせる。彼女の手腕など理解できないかのようだ。英語の掛け声で注意をしてみる。熟練の厩務員に怒りを爆発させて、細かなところまで注意しろといさめる。とんぼ返りの大技の直前にはオーケストラに両手をあげ、静かにするように頼みこむ。最後に小柄な彼女を抱え、身震いしている馬から下ろすと両の頬にキスをする。しかし彼にしてみれば観衆の敬意が不十分だ。彼女自身は座長に支えられ、ぴんと爪先で立ちながら、舞い上がった埃に包まれている。両手を広げ、小さな頭を仰向け、手にした幸福を全観衆と分かち合おうとしている。こんなふうだから、例の桟敷席の観客は顔を手すりに乗せ、終幕後、深い夢に沈みこんだように行進していると、思わず涙が出た。

カフカ 「法の前で」

・フラン・カフカ「法の前で」(Vor dem Gesetz)

・テキストは前回と同じく、同学社の「Kurzgeshichten Franz Kafkas(カフカ 小品集)」という小冊子を使いました。

・前回の「バケツ・ライダー」はけっこうレトリカルな文章やったけど、こちらはすごくシンプルな文章。

 

法の前で

 法の前に門番が立っていた。この門番のもとに一人の男が田舎からやってきて、法の中へ入ることを望んだ。けれど男の入場を認める事はできないと門番は言った。男は考え込むと、後になれば入場が許されるのだろうかと問い質した。「それはできる」と門番は答えた。「でもいまはできない」法に向かう門はいつもずっと開いていたし、門番は脇に歩み寄ったから、男は門の向こうを見るために身をかがめた。門番がそれに気づくと一笑し、「そんなに中が気になるなら、俺が禁止しても中に入ってみればいい。でも気をつけたほうがいい、俺には力がある。あるが、門番のいちばん下っ端にすぎない。とはいえ、広間から広間へと進むにつれて、前の門番よりもっと強力な門番がいる。三人目を見るのも俺は全然耐えられない」こんなややこしいことになるとなんて、田舎者は考えてもいなかった。法はだれにでも、いつでも開かれているはずだと思った。けれど毛皮をまとった門番を、この男の長くまばらで黒々とした韃靼人の髭をいまじっと見てみると、やっぱり入場の許可が下りるまで待ったほうがいいと強く思った。門番は男に腰掛をあたえると、門の脇に座ることを許した。男はそこに何年ものあいだ腰を下していた。入れてもらうために色々なことを試したし、あれこれ請願して門番をひどく疲れさせた。門番は男に何度もささいな尋問を行い、故郷のことなどたくさんのことを穿さくした。ただどれも投げやりで、まるでお偉方のする質問のようだった。そうして最後には、まだ入れることはできないと繰り返すのだった。旅のために色々と用意してきた男は、まだ大変価値あるものばかりだったにもかかわらず、門番を買収するためにその全てを利用した。門番は全部受け取るには受け取るのだが、「ただ受け取るだけで、お前が何かし損なったと思わないようにこうしているだけだ」と付け加えるのだった。何年ものあいだ、男は門番をほとんど絶えず観察していた。他の門番の存在など忘れ、この最初の門番が法への入場を阻む唯一の邪魔者だと思われた。男は事の成り行きの不運を呪った。最初の何年かは遠慮会釈なくあからさまだったが、歳を重ねる誰にともなくつぶやくだけだった。男はだんだん子供じみて、何年にもわたる門番の研究の末、毛皮の襟についたノミさえ見分けられるようになると、ノミにも助けを求め、門番を説得するようノミに頼んだ。最終的に視力が弱まってくると、自分の周りが実際に暗くなったのか、ただたんに自分の目が欺いているのかわからなくなった。けれどきっと、いまこの暗闇の中でも、法の門から発する消え難い輝きは見抜くことができるだろう。死を前にして、過ごした全時間の全経験が頭の中で一つの問い、いままで門番に聞いたことのなかった問いへと収斂した。男は硬直の始まった身体をもう起こすことができず、門番に手で合図を送った。門番は彼の方に深く屈み込まなければならなかった。というのもますます二人の体格差が広がっていたから、男には大変ぐあいがわるかった。「いまになってまだ何が知りたい?」と門番は問いただした。「お前は欲深いな」「だれもが法を求めているのに」と男は言った。「どうして何年も自分以外のだれも入場を求めてやってくることがなかった?」男がもう死にかけていることが門番にはわかった。そしてその消えゆく耳にまだしも届くように、大声でわめいた。「ここにはお前以外にはだれも入れない、だってこの入り口はお前のためだけのものだった。俺はもう行くから閉める」

カフカ 「バケツ・ライダー」

フランツ・カフカの短編「バケツ・ライダー」。原題は"Der Kübelreiter"で、邦訳では「バケツの騎手」とか。

・ちなみにテキストは同学社の「Kurzgeshichten Franz Kafkas(カフカ 小品集)」という小冊子を使っています。文字が大きめで、書き込みしやすくて使いやすい。少しだけ日本語で注があるもの。

バケツ・ライダー  

  石炭は使い尽くした。バケツは空。シャベルはむなしい。冷たい息のストーブ。部屋は凍える息吹の嵐。窓辺の木立は霜に硬直。天空は銀の盾、助けを求めるものを撥ねつける。石炭がなければならない。凍え死になど絶対あってはならない。背後には無情なストーブ、目の前の空も同様。だからストーブと空を通り抜けて騎行し、どちらからも絶妙に距離をとって石炭屋の助けを請わなければならない。とはいえいつも通りにお願いしても、石炭屋は手慣れているから取りあわない。事細かに詳しく説明しなければならない、石炭のわずかな残り滓さえもうなくなった、だから私にとってあなたはまさしく蒼穹に輝く太陽に等しいのだと。物乞いみたく行かなければ、扉の敷居で飢えにあえぐ者のように息絶えようとしていて、だからそんな人間には、名家の料理人ともなればさっき飲んだコーヒーの余りを飲ませてしかるべきだ。石炭屋だっておなじで、怒りが込み上げても、「汝殺すべからず!」という掟の光のもと、シャベルいっぱいの石炭をバケツにぶち込んでしかるべきだ。

 どんなふうに乗りつけるかで事は決する。だから私はバケツに乗って騎行する。バケツの騎手よろしく、いちばんとっつきやすい馬具である取っ手に手をかけ、右往左往、なんとか階段を降りる。けれど階下で私のバケツは身を起こす、素晴らしい、見事だ。地面に低く横たわっていたラクダが主人の棒に身震いしながら立ち上がるのも、こんなにすっくとしていない。こちこちに凍りついた小路を抜け、安定しただく足で進んでいく。二階の高さまで持ち上げられることがよくある。一階のドアまで沈み込むことなどまったくない。そしてたぐいまれに高くまで浮き上がったかと思うと、石炭屋の地下倉庫の天井近く。石炭屋は小机の下、深くしゃがみ込み、何か書きつけている。途方もない熱気を逃すために、この男はドアを開けていた。

「石炭屋!」と私はあまりの寒さに焼けてしまった声で力なく叫んだ。吐く息がもうもうとけぶって身体を包んだ。「石炭屋、どうか少し石炭をいただきたい。バケツはもうとっくに空っぽだから、私はこれに乗って来ることができた。だからよくしてほしい。できるかぎり支払いはする」

 石炭屋は耳に手を当てた。「聞き違い?」と男は肩越しに少し離れたところにいる女将に聞いた。女将はストーブの前に腰掛けて編み物をしている。「聞き違い? 客か」

「何も聞こえなかったよ」そう言う女将は、編み物をしながら静かに呼吸し、背中を心地よく温めている。

「いやいや」と私は声を上げた。「いますよ、だれかいます。古くからの客で、心底忠実な客ですが、でもいまはふところが寒い」

「ねえ」と石炭屋は言った。「いるよ、だれかいる。そんなあからさまに自分をだますことはできない。古馴染みの、かなりの常連客にきまってる。こんなふうに俺の心に訴えるやり方を心得ている」

「何か入用で?」と女将は言い、一瞬手を止めると、その手仕事を胸に押しつけた。「誰もいない、小路には人通りもない、商いするべきお客のみなさんに、やることはやったよ。数日は店を閉めて、休んでもいい」

「とはいいましても、このバケツの上に跨っています」私は大きな声で言った。そして無情な寒々とした涙がこの目にベールをかけた。「上に上がってきてください。すぐに私の姿が見つかります。シャベルに一杯、お願いします。そうしてもらえれば、お二人は私を本当に幸せにしてくれる。もう他のお客さんにはことごとくされていることでしょう。ほんとに、バケツの中からかたかたと音がするのをはやく聞いてみたい!」

「行くよ」と石炭屋は言うと、ばたばたと短い足を絡ませ、地下室の階段を登ろうとした。けれど女将がもう彼のそばにいて、腕を強くつかむと言った。「あなたは行かなくていい。そんなに強情を張るなら私が上に行きます。夜中に咳がひどかったのを思い出してください。たったひとつの用事で、しかも妄想に過ぎないのに、そのために連れと子供を忘れて、自分の肺を犠牲にしているんですよ。私が行きます」「でもじゃあ、倉庫にあるものはどんなものでも客に伝えてあげるんだよ。下から値段を言うから」「そういうことで」女将はそう言うと狭い通路を上がっていった。もちろんすぐに私が目に入った。「石炭屋の女将さん」と私は声を上げた。「謹んで申し上げますが、シャベルにひとすくい、石炭をください。もうここにバケツはあります。こいつは自分で家まで運びます。いちばんひどいシャベルのひとすくいで。もちろん全額支払います。でもすぐには、ちょっと、すぐにではないのですが」この「すぐには、ちょっと」という二語がどんな鐘の音を響かせたのだろう、そして実際近くの教会から聞こえてくる晩鐘と混ざり合って、どれほど心を惑わす音色となったことか!

「で、何をお求めで?」と石炭屋は大きな声で聞いた。「なにも」と女将は言い返した。「やっぱり何もなかった。何も見なかったし、なにも聞かなかった。ただ六時の鐘が鳴っただけだったから、もう閉めるよ。とんでもなく寒いから、明日はきっともっともっと働かないと」

 彼女は何も見なかったし聞かなかったのだ。でもそれなのに、この女将は前掛けの紐をはずして、それをばたばたさせて私を遠くへ吹き飛ばそうとした。残念ながらうまくいってしまう。良き騎乗用の動物に備わるどんな長所も同じくこのバケツはもっているのだから、抵抗する力をもたない。あまりに軽すぎるのだ。女将の前掛けはこいつの足を床から追いやった。

「悪いやつだ」私はなんとか叫び返したが、女将は店に取って返し、半ば軽蔑して、半ばほっとしたように手をばたばた振った。「悪いやつだ! たったひとすくいのシャベル、それもいちばんひどいやつでお願いしたのに、なにもくれなかった」それゆえ私は氷山の連なる場所へと上昇すると、永久に姿を消してしまうのだった。

 

Für Anfänger (35) 第2章了

カフカ『変身』(32)、承前。

・第2章が終わりました(やっと)。いよいよ、最終章の第3シーズン突入ですが、その前にまたなにか短いテクストの翻訳を挟みたいと思います。物語はいよいよ最終回へ、乞うご期待!

・ちょっとつまずくところがあったので、英訳は最後の手段で参照することにしました。邦訳は見ません。

 しかし父親はそんな細かなことに気がつくような心の状態ではなかった。「ああ!」入ってくるやいなや、まるで怒りと喜びの思いが同時に巻き起こっているかのように叫んだ。グレゴールはドアに向けていた頭部を戻すと、父親にむかって上向けた。父親がいまどう思っているのか、ほんとうにわからなかった。もっとも、このところ新しく始めた這徊に気を取られて、前みたいにほかの部屋がどうなっているのか気にかけるのを怠ってしまっていた。本当は心の準備をして、状況の変化を理解しなければならなかった。けれど、とはいえ、これは本当に父親だろうか? この前、自分が商用旅行に出かけるときには、眠たそうにベッドに埋没して横になっていたあの父親と同じ父親なのだろうか? 家に帰ってくると、父は寝巻きで肘掛け椅子にすわったまま出迎えた。しゃんと立つこともできず、喜びのしるしにただ腕を上げるだけだった。ほとんどなかったが、年に数度、日曜日やとりわけ大切な祝祭日、皆で散歩に出かけると、そもそも以前からゆっくりと歩いていた母親とグレゴールにはさまれて歩いたが、だんだん少しずつ遅れて、いつも慎重についていた撞木杖で古いコートに包まれた身体を前へ前へと進め、なにか口にするときもほとんど立ち止まって同行者をそばに集める、そんな父親とあれが同じ父親なのだろうか? でもいまはしっかり背筋を伸ばし、金ボタン付きのぱりっとした青い制服をまとって、銀行の使用人のように着こなしていた。上着の高い襟は硬く、その上にがっしりした二重顎がむくむく生まれていた。ふさふさした眉毛の下から、溌剌とした注意深い眼差しがこぼれ出ている。いつもぼさぼさの白髪は気を配って几帳面になでつけられ、てらてら光っていた。帽子にはたぶん銀行のものと思われる金のモノグラムが印字されている。父親はその帽子を部屋の端から端へ、寝椅子に向かって弧を描いて投げると、丈のある制服の上着の裾を後ろにまくり、両手をズボンのポケットに入れたまま、苦虫を噛み潰したような顔でグレゴールに歩み寄った。きっと父親は自分でも何をしようとしているのかわかっていない。いずれにしても父親が足を並外れて高く上げると、グレゴールはその足の裏の巨人のような大きさにおどろいた。けれどそんなことに気をとられていられなかった。新しい生活が始まった初日からもうわかっていたが、父親は自分に対してかなり厳しく接するのが適当だと考えていた。そうしてグレゴールは父親と一定の距離を保ちながら動き、父親が立ち止ったら自分も止まり、父親が動き出したときにだけまた急いで前進した。そんなふうに何も決定的なことが起こらないまま、二人は何度も部屋を周回した。それどころかゆっくりとしたテンポのせいで、その光景全体が追いかけ合いをしているようには見えなかった。グレゴールはとりあえず床以外には向かわなかったが、それは父親が壁や天井に逃げることを特に悪質な行為だと考えているかもしれないことを恐れていたからだった。とはいえ、こんなふうに動くことには長く耐えきれないだろうということも自分に言い含めなければならなかった、というのも父親が一歩進むうちにも、彼は無数の動きを実行しなければならなかったのだった。もう呼吸するのが苦しくなってきて、信頼にたる肺が以前からこの身体にはなかったことがはっきりしてきた。そういうわけで、いまでは進行するために力を振り絞るとふらっとよろめいてしまい、目を開けておくこともできなかった。頭が回らなくて、床を走り回る以外に身を助ける方途がまったく思い浮かばず、自分が周囲の壁を自在にできることさえもう忘れかけていた。とはいってもこの部屋は、丁寧に彫り込まれた家具類の先端がたくさん突き出ているのが邪魔だった。―― そのとき、彼の真横に軽く投げられた。何かが中空をよぎり、地面に落ち、目の前まで転がってきた。リンゴだった。すぐに二つ目が後を追ってきた。グレゴールはびっくりして動きを止めた。これ以上すすんでも意味がない、父親は彼を爆撃することにしたのだ。食器棚の果物皿からリンゴを取り出してポケットいっぱいにつめると、いまやさしあたっての目標もはっきり定めずに次から次へ投げた。そのいくつもの小さな赤いリンゴが、感電したみたく床のあちこちに転がり、互いにぶつかり合った。弱々しく投げられたリンゴが一つ、グレゴールの背中をかすめたが、これはすべり落ちて何事もなかった。けれどさらにもうひとつ、すぐに後を追うようにして投げ込まれたリンゴは、文字通りグレゴールの背中にめり込んだ。信じがたい、驚くほどの痛みだったが、位置を変えればその痛みも過ぎ去ってくれるかのように、グレゴールは自分の身体を引きずりながらさらに先へすすもうとした。けれどその場に釘付けにされたように感じ、全感覚がすっかり混乱してぐったり身体を伸ばした。わずかに最後の視線を向けて、自分の部屋のドアが打ち開かれたのを、そして妹が叫びを上げているところに肌着の母親が急いでやってくるのをなんとか確認した。肌着だったのは、気絶していた母親が楽に呼吸できるように妹が服を脱がせていたのだ。それから母親は父親へ大声で呼びかけ、進むうちにだんだんと脱げてくるスカートを床に滑り落とし、そのスカートに足を絡めながら父親に詰めよった。父親を抱擁すると完全に一体となり―― けれどこのときグレゴールの視力はもう機能しなくなっていた―― 、父親の後頭部に腕を回してグレゴールの命をいたわってくれるように頼んだ。

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Für Anfänger (34)

カフカ『変身』(31)、承前。

 二人はあまり長くは休もうとせず、すぐに戻ってきた。グレーテはほとんど支えるように母親の体に手をまわしていた。「じゃあ今度は何を運び出そうか?」とグレーテは言い、あたりを見回した。そのとき、視線が壁にいるグレゴールとかち合った。きっと母親がいたからぎりぎりのところで自制心を保つことができた。母親が部屋の周囲を見ないように顔をかがめ、とはいえ怖くて震えながら、よく考えもせずとにかく「こっちに来て、もうちょっと居間に戻ったほうがよくない?」と言った。グレーテの思惑はグレゴールにはよくわかった。母親を確実に運び出して、壁から自分を追い払うつもりだ。ところで妹はほんとにそうしかねない! グレゴールは自分の絵の上に張りついたまま動かず、絵を引き渡そうとはしなかった。それくらいならグレーテの顔に飛びかかったほうがましだろう。

 けれどグレーテの言葉は母親をますます不安にした。母親は脇に寄り、花柄の壁紙に巨大な褐色のしみがあるのを発見すると、それがグレゴールだと意識するより前に「ああなんてこと、ああなんてこと!」と甲高いしわがれ声で絶叫した。そしてなにもかも手放すように腕を広げると、寝椅子の上に倒れて動かなくなった。「ちょっとグレゴール!」と妹が拳を振り上げて睨みつけながら言った。それは変身してから妹がグレゴールに直接投げかけた初めての言葉だった。妹は失神した母親の目を覚ますため、なにか気付けの香料を取りに隣の部屋へ走った。グレゴールも手をかそうとしたが―― 絵を救出するにはまだ時間がある―― 、ガラス面にしっかりくっついていたから、力ずくで引き離さなければならなかった。それから自分も隣の部屋へ駆け込んだ。まるで以前のように、なにか妹の手助けができるかのようだった。でもそれから先は、色々な瓶を引っ掻き回す妹の後ろでただなにもできずにいることしかできなかった。振り返った妹はグレゴール見てやっぱりおどろき、瓶を床に倒して割ってしまった。割れた破片がグレゴールの顔を傷つけ、何か腐食性の薬品が流れてグレゴールを取り囲んだ。グレーテはあまり長くそこにとどまらず、瓶を持てるだけたくさん取り出すと、それを抱えて母親のもとへ急ぎ、ドアを足で閉めた。自分のせいでその死期を近づけてしまったかもしれない母親から、グレゴールはいまや遮られてしまった。ドアを開けてはならなかった。母親のそばにいなければならない妹を追い出すつもりはない。いまは待つことしかできない。そして自責の念と心配でいてもたってもいられず這徊を始めた。壁、家具、天井、ありとあらゆる物の上を這い回った。部屋全体が回転を始めると、自暴自棄になってとうとう大きな机の真ん中に落ちた。

 しばらく経っても、グレゴールは疲れ果ててその場に寝転んでいた。周りが静かだったのは、いい徴候かもしれない。そのとき呼び鈴が鳴った。女中の女の子はもちろん台所に閉じこめられているから、グレーテがドアを開けに行かないければならなかった。父親が帰ってきたのだ。開口一番「どうした?」と聞いた。グレーテの様子がきっとすべてを物語っていたのだろう。彼女はくぐもった声で答えた。あきらかに顔を父親の胸に押しつけていた。「お母さんが気絶した。でも、もうよくなった。グレゴールが急に出てきて」「そうなると思っていた」と父親が言った。「二人にいつもそう言っていたのに、ちゃんと聞こうとしなかった」グレーテのあまりにも短い報告を父親が悪く受け取り、グレゴールがなにか暴力的なことを働いたのだと思ったことは、グレゴールには明らかだった。だからいま、父親を落ち着かせるためになにかしなければならない。というのも父親に説明するような時間も、できる可能性もないのだから。そういうわけで自分の部屋のドアの方へ逃げこみ、ドアのそばで身を伏せた。そうすることで、自分は精一杯、即刻部屋に戻ろうとしているし、戻るように追い払う必要もなく、ドアを開けてくれさえすればいい、そうすればすぐに姿を消すつもりだということを、父親が玄関の間から入ってきたときに一目瞭然でわかるようにした。

Für Anfänger (33)

カフカ『変身』(30)、承前。

 なにか異常なことが起こっているのではなく、ただ家具がいくつか場所を移されただけだと何度も自分に言い聞かせていたにもかかわらず、女性たちがあっちこっちに出入りすることが、またその小さな呼びかけが、あるいは家具が床を引っ掻いていくことが―― すぐに自分からそう認めざるをえなかった―― まるで全方位からひどい喧騒が近づいてくるように思わせた。そして頭部と脚をぎゅっと縮こめ、床につくまで身体を押しつけても、こうしたすべてに長くは耐えられないだろうとどうしても思わざるをえなかった。二人はグレゴールの部屋の中身を空っぽにして、親しみを持っていたなにもかもを取り去ろうとしている。戸棚には糸の子やそのほか道具類がしまってあって、それも二人はもう運び出してしまった。商業学校、高等小学校、それどころかすでに小学校のときからそこで宿題をしていた書き物机は、ずっと前から床にしっかり跡を残していたが、いまやそれも位置をずらされていた―― そういうわけだから、二人の女性の善意を試してみるような時間はもう本当になかった。二人の存在をグレゴールがほとんど忘れていたのは、疲れ切ってもう口もきかずに作業していたからで、聞こえるのは重々しげによたよたと歩く二人の足音ばかりだった。

 そんなふうだったから、グレゴールはぱっと飛び出した―― 二人は隣の部屋でちょっと一息いれるために書き物机に身をもたせかけていた―― 。進行方向を四度変更した。まず何から救出すればいいのかまったくわからなかった。もうなにもなくなった壁に、毛皮に身を包んだけばけばしい女性の絵がぽつんとかかっているのが目についたから、慌てて壁をよじのぼると、そのガラス面に身体を押し付けた。ガラス面はしっかりと身に張り付き、熱くなった腹部に気持ちいい。少なくともいますっぽり覆いかぶさってしまえば、きっと誰もこの絵は取り外さないだろう。グレゴールは居間の扉の方に頭をひねって、二人が戻ってくるのではないかと注意深く見つめた。